導入文
最近、自分は「無音」がかなり苦手なんだと気づきました。
ご飯を食べる時はYouTubeを流す。
お風呂でも動画や音楽を流す。
寝る前はSEOの本を読んだり、AIに考えを吐き出したりする。
以前は、「スマホ依存っぽいな」と思っていました。
でも最近は、少し違う気がしています。
双極性障害による不安や脳疲労が強い時、
私は“無音”に耐えられなくなるんですよね。
静かになると、過去の記憶や不安が急に浮いてくる。
だから無意識に、「ながら○○」を増やしていました。
双極性障害では、「楽しかったはずなのに実感だけが残らない」という感覚になることがあります。私自身、その“感情の宙ぶらりんさ”について別の記事でも書いています。
今回は、双極性障害の私が「無音」を怖がる理由と、
“気配”に支えられている感覚について書いてみようと思います。
双極性障害の不安は「静かな時間」に浮いてくる
双極性障害の不安って、必ずしも「落ち込んでいる時」にだけ来るわけではない気がしています。
むしろ私の場合、静かな時間ほど不安が前に出てくる。
食事中。
お風呂。
寝る前。
ぼーっとしている時。
本来は休息の時間のはずなのに、急に過去の記憶が再生されるんですよね。
「あの時なんであんな言い方したんだろう」
「また同じ失敗をするかもしれない」
「このままずっと低空飛行なんだろうか」
特に脳疲労が強い時ほど、その傾向がはっきり出ます。
双極性障害の脳疲労って、ただ疲れるだけじゃなく、
“神経だけ起き続ける”感覚になることがあります。
私は以前、「脳が休まらない感覚」について
別の記事でもかなり具体的に書いています。
楽しいという感情が薄くなっているのに、不安だけ妙に鮮明。
感情の芯は動かないのに、神経だけ過敏に起きている感じがあります。
だから最近は、無意識に“空白”を埋めるようになっていました。
「ながら食べ」は怠惰ではなく、不安の分散だった
私は、ただ食べるだけの時間が結構苦手です。
ご飯を食べる時、気づいたらYouTubeを流している。
アニメだったり、解説動画だったり、人が喋っている配信だったり。
内容を真剣に見ているわけじゃないんですよね。
ただ、“無音”にならないようにしている。
以前は「ながら食べなんて良くない」と思っていました。
でも今は、静かなまま食べる方がしんどい。
食べるって、意外と無防備な時間なんですよね。
手も止まり、頭の中の余白が増える。
すると、不安や焦燥感が急に前へ出てくる。
だから私は、動画や音楽を流して意識を少し分散させている。
最近は、「依存」というより、脳が不安を散らそうとしている感覚に近い気がしています。
お風呂は「過去の記憶再生装置」になりやすい
特に危険なのがお風呂です。
ちなみに私は、うつ期になると“お風呂そのもの”のハードルもかなり上がります。
身体は動いているのに、脳は暇なんですよね。
すると急に、昔の記憶が再生される。
学生時代の失敗。
人間関係。
言いすぎた言葉。
将来への不安。
しかも風呂場って静かです。
逃げ場がない。
だから最近は、お風呂でも動画や音楽を流すことがあります。
以前の自分なら、「そんなの落ち着かない」と思っていたはずなのに、今は逆です。
無音の方が落ち着かない。
双極性障害の抑うつや脳疲労が深い時って、
「ぼーっとする」が休息として機能しないことがあるんですよね。
静かにすると、脳が勝手に不安を拾い始める。
だから私は、“ながら風呂”や“ながら食事”をしながら、なんとか神経を落ち着かせています。
「そー」ちゃんがいなくなってから、無音が怖くなった
今思えば、自分が無音を怖がるようになった大きなきっかけは、
「そー」ちゃんを亡くしたことだった気がします。
「そー」ちゃんの介護中は、常に神経を張って生活していました。
当時の限界寸前だった感覚は、こちらの記事にも残しています。
私はもっと一緒にいられると思っていました。
14歳。
短い、と思った。
20歳近くまで生きる猫もいる。
だからどこかで、「まだ大丈夫」があったんですよね。
でも、「そー」ちゃんは先に行ってしまった。
そのあと、私のペットロスはかなり酷かったです。
毎日音楽を流していました。
部屋も明るくしていた。
暗闇と無音が、本当に無理だった。
そして延々と、ブリーダーサイトをスクロールしていました。
見ている間だけ、少し心がラクだったんですよね。
今振り返ると、あれも「気配」を探していたんだと思います。
「しぃ」ちゃんは、“代わり”ではなく精神的支柱の後継者
その時に出会ったのが、「しぃ」ちゃんでした。
本当に「そー」ちゃんに似ているんです。
膝に乗りたがる。
撫でてほしがる。
横や足元で寝る。
夜中に起きると、ついてくる。
もちろん、「そー」ちゃんの代わりはいません。
そこは別なんですよね。
でも私は時々、もういない「そー」ちゃんに心の中で思っています。
「しぃ」ちゃんを、精神的支柱の後継者として認めてほしいな」って。
猫って、「癒やし」だけでは片付かない存在だと思います。
特に双極性障害みたいに、感情や生活リズムが不安定になりやすい人間にとって、
生き物の気配ってかなり大きい。
呼吸音。
体温。
歩く音。
横で眠る感じ。
それだけで、「世界に自分しかいない」が少し薄くなる。
だから私は、しぃちゃんが頭の横で寝てくれる時が、一番安心します。
「気配」があると、静けさが“消失”にならない
以前の私は、静かな時間をもっと普通に過ごせていました。
お茶を飲んで、ぼーっとして、そのまま眠る。
そういう時間が、ちゃんと休息だった。
でも今は、無音が“空白”ではなく、“消失”に近い感覚になることがあります。
そこにいたはずの気配が消えてしまった経験をすると、
静けさそのものが怖くなるんですよね。
だから最近は、「完全な静寂」を目指すのをやめました。
動画を流してもいい。
雨音でもいい。
猫の寝息でもいい。
まずは、自分の神経が警戒しすぎない環境を作る。
それくらいでいいのかもしれません。
「静けさ」が必要なのに、「無音」は怖い
双極性障害の脳疲労には、刺激を減らすことが大事だと言われます。
それは本当にそうだと思います。
情報を入れ続けると、脳がどんどん疲れていく。
SNSを見続けたり、SEOの情報を延々追ったりすると、神経が擦り切れていく感覚があります。
だから本当は、静かな時間が必要なんですよね。
でも厄介なのは、私の場合、“完全な無音”にすると不安が強くなることです。
静かになると、過去の記憶や焦燥感が浮いてくる。
だからといって刺激を入れすぎると、今度は脳疲労が悪化する。
結局、「無音」と「刺激過多」の間をずっと探している感じがあります。
最近は、
- 猫の寝息
- 雨音
- 小さい音楽
- 内容を追わなくていい動画
みたいな、“気配だけある静けさ”がちょうどいいと感じています。
完全に孤独ではない。
でも、脳を強く働かせるほどの刺激でもない。
今の自分には、そのくらいの静けさが合っているのかもしれません。
まとめ
双極性障害になってから、私は「無音」が苦手になりました。
静かになると、不安や過去の記憶が急に前へ出てくる。
だから無意識に、「ながら食べ」や「ながら風呂」をして、
不安を分散させていたんだと思います。
以前は、「依存っぽいな」と感じていました。
でも今は、防衛反応に近かったのかもしれないと考えています。
そして、その背景には「そー」ちゃんを失った経験もあった。
無音が怖かった時期を経て、今は「しぃ」ちゃんの気配にかなり支えられています。
猫の寝息。
隣で眠る温度。
小さな生活音。
それだけで、「世界から切り離されていない」と思える日があります。
もし、静かな時間がしんどい人がいたら、無理に“完全な無音”を目指さなくてもいいのかもしれません。
今の私には、“少し気配のある静けさ”くらいがちょうどいい気がしています。
双極性障害の脳疲労や、「静かな時間」がしんどくなる感覚については、
他の記事でも少しずつ書いています。
同じように「休みたいのに脳だけ休まらない」と感じる人の参考になれば嬉しいです。

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