心無い言葉だけ綺麗に拾う双極性障害と理解しない人の楽観視

褒められた言葉はすぐ忘れるのに、
否定された一言だけは、なぜか何年経っても思い出せる。

双極性障害と診断されてから、その傾向はさらに濃くなった気がします。
過敏なのではなく、たぶんもっと別の話なんですよね。

目次

「気にしすぎ」の一言が、ずっと頭に残る

悪気がない言葉ほど処理しきれない

「気にしすぎだよ」と笑顔で言われたことが、
いまだに頭の片隅に置いてあります。

言った本人にとっては、たぶん会話の調味料くらいのものだったと思います。
でもこちらは、その一言を持ち帰って、夜にもう一度開けてしまう。

悪意がないからこそ、どう処理していいのか分からないまま
残ってしまうのかもしれません。

励ましなのに、責められているように感じる時がある

「もっと前向きにいこう」と言われた瞬間、なぜか少し身体が固くなる。
励ましのつもりだとは分かっています。
ただ、こちらの輪郭にうまく当てはまらない言葉は、
ときどき責任のように感じてしまう。 うつ状態の朝に聞くと、特にそうです。

双極性障害の脳は”危険”を拾いやすい

周囲の空気を読みすぎてしまう

部屋に入った瞬間、誰がどんな顔をしているかを一秒で確認している。 自分でもやめたいのに、勝手にやってしまうんですよね。 双極性障害があると、感情の振れ幅が大きいぶん、周囲の小さな変化にもアンテナが張りやすいと言われています。

表情や声色を無意識に監視してしまう理由

「ちょっと声、低かったな」が一日中残ることがあります。
本人にその気がないのは頭では分かっている。

でも脳の側が、危険信号を勝手にピックアップしてしまう感じ。
これは性格ではなく、家庭環境で長く張り続けた緊張の癖だと思っています。

「また否定されるかもしれない」が抜けない

過去に否定された記憶があると、次の会話の前に身構えてしまいます。
備えてしまう、と言ったほうが近いかもしれません。
備えるから疲れる。疲れるから、また誤解される。その繰り返しです。

理解されない苦しさは、症状そのものより消耗する

「元気そうじゃん」に傷ついてしまった日

「元気そうじゃん」と言われて、
笑って返した日のことを覚えています。

本当はその日、家を出るまでに二時間かかっていました。
症状そのものより、見えないことを”無いこと”にされるほうが、
地味に削れていく気がします。

躁状態を”本来の性格”として扱われる違和感

軽躁のときの自分は、テンションが高くて、よく喋って、行動も早い。
それを見た人に「本来はそっちなんだよ」と言われると、
少しだけ立ち止まってしまう。

あれは”本来”ではなく、波の片側でしかないんですよね。
でも、それを毎回説明する気力はもう残っていません。

「みんな辛い」は正論だけど、しんどかった

「みんな辛いよ」は、たぶん間違っていません。
ただ、薬を飲んで、波を計算しながら生きている辛さと、
同じ言葉でまとめられると、少しだけ息が浅くなる。
正論はときどき、扉を静かに閉めてくる感じがします。

心無い言葉だけ”綺麗に”記憶に残ってしまう

優しい言葉より否定のほうが脳に残る

人間の脳は、もともとネガティブな情報を優先的に覚えるようにできているそうです。
危険を避けるための仕組みなので、仕方ない部分はある。
ただ双極性障害があると、その回路がもう少し強めに働いている気がしています。

忘れたいのに、会話だけ何年も思い出せる

何年も前の、たった一言。
あのときのカフェの席の位置まで思い出せるのに、
肝心の楽しかった会話のほうは輪郭がぼやけている。
「綺麗に残る」というより、「綺麗に切り取られて保存されている」感覚に近いかもしれません。

「普通になれない自分」を責め続けていた

長い間、覚えてしまう自分のほうが悪いと思っていました。
忘れられないのは弱さなんだ、と。 でも今は、少し違う見方ができる気がしています。

感情より先に”分析”してしまう癖

本当に傷ついたのか、自分でも分からなくなる

傷ついた瞬間に「これは傷ついていい場面か?」と検算してしまう癖があります。
感情を一度、外に出して点検してから戻している感じ。
そうしているうちに、もとの感情がどんな形だったのか分からなくなることがあります。

「自分が悪いのでは」と考え始めてしまう

相手の言葉より先に、自分の落ち度を探してしまう。
これは双極性障害というより、長く生きてきた環境の癖なのかもしれません。
ただ、両方が重なると、より強く出る気がしています。

感情を感じる前に、自分を解説してしまう

文章を書くようになってから気づきました。
私はたぶん、感情を「感じる」前に「解説」している。
だからこうして、自分のことを他人みたいな距離で書けてしまうのだと思います。

老猫介護と家庭環境で、脳がずっと警戒モードだった

常に誰かの様子を見ていた子供時代

子供のころから、家のなかの空気を読むのが日課でした。
誰が機嫌悪いか、誰が今話しかけて大丈夫か。
それを観測することが、自分を守る方法だったんですよね。

安心して気を抜く感覚が分からなかった

「ぼーっとする」が、長いあいだ苦手でした。
気を抜いた瞬間に何かが起きる、と身体のどこかで思っていたのかもしれません。
猫と暮らすようになって、初めて「気を抜いていい時間」が分かってきた気がします。

「大丈夫?」より先に周囲を確認してしまう

老猫の体調が悪い日、最初に確認するのは猫の様子。
二年かけて作られた猫様ファースト。
ごはん食べた?お水飲んだ?便出た?尿出た?ぐったりしてない?

「そー」ちゃんの緩和ケアあるいは介護がトラウマ化してる。
だから「大丈夫?」と言うより先に定位置にいる
「カイ」ちゃんと「しぃ」ちゃんを探す。

「理解してほしい」と「もう説明したくない」の間で

理解してほしい気持ちは、もちろんあります。
ただ同じ説明を何度もして、毎回少しずつ誤解されて帰ってくる、
あの工程に疲れてしまったのも本当です。

「双極性障害です」と言ったあとに、相手の表情が一段階変わるのを見ると、
もう次の言葉を選ぶのがしんどくなる。

だから最近は、説明をやめて、文章のほうに置くようになりました。
書いたものなら、読みたい人だけが読んでくれる。
誤解されても、目の前で表情を見なくていい。

それくらいの距離感が、いまの私にはちょうどいいんですよね。
孤独はあります。
でも、説明し続けて削れていく孤独よりは、
少しだけ穏やかな種類の孤独な気がしています。

まとめ|過敏なのではなく、”ずっと気を張って生きてきた”

優しい言葉も、ちゃんと覚えています。
でも、心無い一言だけは、妙に鮮明に残ってしまう。その人をずっと警戒してしまう。
それは弱いからではなく、ずっと周囲を警戒しながら生きてきた脳の癖なのかもしれません。

過敏という言葉でまとめてしまうと、自分のせいに聞こえてしまう。
でも、警戒の癖と言い換えると、少しだけ自分を許せる気がします。
忘れられない一言があるのは、ちゃんと長く生きてきた証なのかもしれません。

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この記事を書いた人

「双極性障害」「老猫介護」「ペットロス」「脳疲労」。

このブログでは、
混合状態や在宅生活の中で感じたことを、
猫たちとの暮らしと一緒に記録しています。

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