導入文
写真フォルダを開いて、
自分が笑っている写真を見つけたとき。
「あれ、これ、楽しかったんだっけ」
と思うことが、最近よくあります。
笑っているのは確かに自分です。
でも、その瞬間の温度というか、感情の手触りみたいなものが、
どうしても思い出せない。
記録としての笑顔だけが残っていて、
中身が空っぽに見える。
そういう感覚に名前があるのかはわかりません。
ただ、双極性障害と長く付き合っていると、
こういう「自分の過去が他人事に見える瞬間」がときどきやってきます。
そのたびに、大切な思い出を亡くしたと、焦りと不安と痛みが心をえぐります。
双極性障害で「楽しかった」がわからなくなることはある
結論から言うと、双極性障害では
「楽しかった記憶はあるのに、楽しかった感情だけが再生できない」
ということが起こり得ます。
これは記憶の問題というより、
感情へのアクセスの問題に近い気がしています。
笑っていた記憶はあるのに感情だけ思い出せない
たとえば、旅行の写真を見ても、出来事は思い出せる。
誰と行って、何を食べて、何時頃に何をしたかも順番に出てくる。
でも、そこに「楽しかった」という感情がついてこない。
映画のあらすじだけを説明されている感じ、
と言えば近いかもしれません。
ストーリーは知っているのに、
観た時の感動だけが抜け落ちている。
「本当に楽しかったの?」と自分を疑ってしまう
そして厄介なのが、感情が思い出せないことで
「あの時、本当に楽しかったんだろうか」
と過去そのものを疑い始めてしまうところです。
「躁状態だっただけでは?」
「無理して笑っていただけでは?」
「周りに合わせていただけでは?」
検証が始まると、楽しかったはずの記憶まで色が褪せていく気がします。
気分状態依存記憶|その時の感情にアクセスできなくなる
「気分状態依存記憶」という考え方があります。
ざっくり言うと、ある気分のときに記憶した内容は、
同じ気分のときに思い出しやすい、というものです。
たとえば、楽しい気分のときに作った記憶は、
楽しい気分のときに鮮明に蘇りやすい。
逆に、今が落ち込んでいるときは、
過去の幸せな記憶に「感情ごと」アクセスするのが難しくなります。
躁状態の高揚感は後から再現しにくい
双極性障害の場合、
これがけっこう極端に出る気がします。
特に躁状態のときの高揚感は、
フラットな状態や鬱状態のときから振り返ると、
まるで別人の感情のように見える。
「自分があんなにテンション高かったわけがない」と、
当時の自分を信じられなくなることもあります。
「記録」はあるのに「感情」が再生できない
写真や日記、SNSの投稿は残っている。
そこには確かに楽しんでいた形跡がある。
でも、感情だけが再生できない。
これは「忘れた」のとは少し違います。
ファイルはあるのに、再生するアプリが今の脳に入っていない、
という感じに近いかもしれません。
躁状態の”楽しさ”が信じられなくなる理由
躁や軽躁のときに感じた楽しさは、
フラットに戻ったあと
「あれは本当の楽しさだったのか」
と疑いやすいものです。
ドーパミンの過活動で世界が違って見えることがある
躁状態では、脳内の神経伝達物質のバランスが
普段と違うと言われています。
特にドーパミンの働きが活発になると、
いつもなら気に留めないものが、やたら鮮やかに見えたり、
すごく楽しく感じられたりすることがあります。
つまり、世界の見え方そのものが、
普段とずれている時間帯がある。
後から「脳が興奮していただけでは」と感じる苦しさ
冷静になってから振り返ると、
「あれは脳が興奮していただけで、本当の自分の楽しさじゃなかったのでは」
という気持ちが出てくることがあります。
これはけっこう、しんどい疑いです。
過去の楽しい記憶を、自分で「偽物」のラベルを貼って
整理してしまう感覚に近い。
ただ、脳が興奮していたとしても、そのとき確かに笑っていた自分が
いたことまでは否定しなくていいのかな、と最近は思うようになりました。
過去の自分の言動を全部「病気のせい」で片付けたくない、という感覚については、双極性障害と診断されても、「全部病気だった」とは思えなかったの方にも書いています。
解離感や脳疲労で「感情の温度」が消えることがある
感情へのアクセスが悪くなる背景には、
解離感や脳疲労も関係していると言われます。
思い出に現実感がなくなる感覚
過去の出来事を思い出しているのに、
なんだか他人の話を聞いているようにしか感じられない。
自分の人生のはずなのに、距離がある。
この「現実感のなさ」は、強いストレスや慢性的な疲労が続くと
出てくることがあるそうです。
長いストレスや介護で脳が防御モードになる
長く介護をしていたり、不安定な状態が続いていたりすると、
脳がだんだん「感じすぎないこと」で自分を守ろうとする気がします。
感情のボリュームを下げて、なんとか日常を回す。
そのモードに入ったまま時間が経つと、
過去の感情にも今の感情にも、
うまく温度を感じられなくなることがある。
「楽しかった」を感じる前に分析してしまう
もうひとつ、自分の中で気づいたことがあります。
それは、楽しいかどうかを感じる前に、頭が分析を始めてしまうという癖です。
「躁だった?」「無理してた?」と検証してしまう脳
何かを思い出すとき、
まず「これは躁のときの記憶か」
「あのとき自分はどんな状態だった?」と、
感情より先にチェックが入る。
検証が終わってからじゃないと、
安心して感情に触れられない。
でも、検証している間に、
感情のほうが先に消えてしまうこともあります。
感情より先に安全確認や責任感が動いてしまう
これは双極性障害だけの話ではないかもしれません。
猫の介護を長く続けていた時期も、似たような感覚がありました。
何かを「楽しむ」前に、まず安全かどうか、
責任を果たせているかを確認する癖がついていた気がします。
楽しむ準備が整うころには、すでに疲れていて、感情まで届かない。
老猫介護と過集中で、感情を感じる余裕がなくなっていた
老猫の介護をしていた頃のことを思い出します。
テレビをつけていても、画面は見ていませんでした。
視線は猫の方に向いていて、呼吸のリズムや、
ちょっとした動きの変化を、ずっと監視している。
「楽しい番組だな」と思う前に、
「今、猫の様子は大丈夫か」が先にきていました。
笑っているシーンでも、半分は猫の物音を拾っていた気がします。
ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、
頭のどこかで猫のことを考えている。
過集中の状態が長く続くと、楽しさを感じるための
余白そのものがなくなっていくんですよね。
常に何かを警戒している状態が日常になってしまう感覚は、
実家にいるだけで疲れる理由の方でも書きました。
あとから振り返って、「あの頃、何かを楽しんだ記憶がない」
と思ったことが何度もあります。
でも、それは楽しさがなかったというより、
楽しさを感じるためのチャンネルが、
ずっと別のことに使われていたのかもしれません。
過集中と感情の鈍化については、シニア猫介護で燃え尽きそうなときの話の方でも少し書いています。
「あの時の笑顔」が全部嘘だったわけではない
写真の中で笑っている自分を見て、「これは本物の笑顔だったのか」
と考えてしまう日があります。 ただ、最近はこう考えるようにしています。
今の脳状態で感情にアクセスできないだけかもしれない
楽しかった感情が思い出せないからといって、
その瞬間に楽しさが存在しなかったとは限らない。
今の脳のコンディションでは、
その感情の周波数に合わせられないだけ、なのかもしれません。
ラジオのチューニングがずれているだけで、
放送そのものは流れている。 そういうイメージに近い気がします。
「楽しかった実感がない=愛情がなかった」ではない
これは特に、亡くなった家族や猫との思い出について感じやすいことです。
「楽しかった実感が薄い」
「幸せだったかどうかわからない」
と感じると、それが「愛していなかった証拠」
のように思えてしまうことがあります。
でも、感情の記憶の鮮度と、その関係の本物さは別の話なのかもしれません。
覚えていなくても、感じられなくても、確かにそこにあったものはある。
亡くなった子との時間の感じ方が、時間が経つにつれてどう変わっていったかについては、ペットロスから立ち直るまでの時間の方にも書いています。
まとめ|双極性障害では”感情を後から感じられなくなる”ことがある
最後に、要点だけまとめておきます。
- 双極性障害では、感情と記憶が切り離されたように感じる瞬間がある
- 鬱状態やフラットな状態では、過去の幸福感へのアクセスが悪くなりやすい
- 気分状態依存記憶という考え方で説明されることもある
- 解離感や脳疲労、長いストレスが関係している場合もある
- 「本当に楽しかったのか」と自分を疑う人は少なくない
- 今思い出せなくても、その瞬間の感情まで消えたとは限らない
「楽しかった記憶がない」のではなく、
“今の自分が、その感情に触れられないだけ” なのかもしれません。
写真の中の自分を、今は遠く感じてもいい気がします。
そのうちまた、ふとした拍子に温度が戻ってくる日もあるかもしれないので。

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